杉本板金工業所の歴史は先代杉本寅雄氏から始まる、父周次郎、母ひでの、三男五女の長男として、1914年(大正3年11月18日)生まれました。15歳で大町にあった加賀田鋳掛店(釧路銅鉄板商工組合初代組合長、後の釧路板金工業協同組合)に住み込みとして働く、ゆわえる丁稚奉公です。
仕事はもちろんの事、掃除洗濯子守と朝早くから夜遅くまで働き、月に1日15日だけ休みで、食べ物は飼い猫よりも粗末なもので、給金はこづかい程度しかもらえない時代だったそうです。当時は徒弟制度ですので、今とは違い手取り足取り教えてくれる事はなく、兄弟子の技を盗み見して一つでも多く覚え自分の物にする事で必死だったそうです。仕事はものつくりで、特に北海道は寒冷地なので冬の暖を取るのに、暖房器具がどうしても必要なのです。
ルンペンストーブ,薪ストーブ、湯沸かし器、ひしゃく、七輪、じょうろ、煙筒、バケツなどブリキ板や亜鉛メッキ鋼板で,高価な銅板や真鍮板では、銅壺、茶筒、鍋、神社仏閣の装飾品の数々を高度な技(展開)や伝統の技(打ち出し、切り出し)で加工したそうです。
ともかく自分の腕を上げる日々、五年の歳月をへて、やっと二十歳で年季明け、晴れて職人として真面な給金がもらえ、通い身となります。その後お礼奉公として数年いないと独立できなかった時代、先代は22歳の若さで独立しました。父が病気になり収入がとだえ大勢の家族を養うため、人の何倍も稼がなくてはならないです。
昭和二十年代中頃 先代寅雄氏と三津谷氏 当時はブリキ屋と呼ばれた時代です。
努力が報われ、杉本ブリキ店を立ち上げ、昭和15年平田ヤエ子と結婚し長女次女もうけ幸せな頃、太平洋戦争が始まり、陸軍で樺太の戦地へ行き大変な思いをし、なおかつロシアの捕虜収容所に二年入れられたそうです。捕虜のころの話ですが、どうして普通より長かったのかは、ものつくりの技術を持っている先代の技が貴重だったのです。しまいにはロシアの女性を連れてきて嫁にもらえとまでいってきたそうです。
昭和22年春復員、釧路に戻り待っていた妻、子供達、母、妹弟、そして祖母は戦前残した金も使い果たして、明日食べる物にも事欠いている状況だった自分も、ガリガリの栄養失調の体で義理の兄からお金を借りて、払下げドラム缶を買い、タガネとハンマーで鍋、ストーブを作り売り、戦後の混乱期物資のない時代飛ぶように売れた。芸は身を助くではないが技術は身を助ける、一度身に付けた技は自分が見失わない限り自分の物なのです。
当時の先代の姿が強く心に、そしてものつくりの素晴らしさが見えてくるようです。昼間はものつくり夜は塩虫取り(防波堤の隅にいる、夜集光投ランプを照らすと集まってくるのをタモですくって、乾燥させて農家の肥料として使われた。)と寝る間も惜しんで働いた。塩虫の仕上げはおばあさんと家族で手伝い、何とか生活が出来るようになり、本業の板金業に力を入れ着々と準備をして、昭和20年中頃、資金もたまり、釧路の発祥の地米町の大通りに、工場兼住宅を構える事になりました。杉本ブリキ店の再スタートです。再スタートに対して忘れてはならない人は三津谷善森氏(有)三津谷板金工業初代社長、氏は先代がロシアの捕虜の時、共に働き苦労した仲間で、先代を頼りに釧路に来て工場の二階にかまどを構え、我が社の礎を築いた方です。
その間家庭では、三女四女と生まれ、昭和26年に待望の男の子(兄良一)が生まれました。それはそれは両親の喜びは大きかったと思います。
仕事も順調に行くが、くしくも高度経済成長期、ものつくりも機械化が進み、動力の切断機、折曲機、プレス機の導入で工場板金へ、そして屋根も、建築基準法が変わり屋根には不燃材の使用が義務づけられたため、それまでの柾屋根(木を2.3mmにスライスして張り合わせ工法)からトタン屋根へ,今の建築板金に変わっていきます。
昭和三十年代前半 厳島神社大祭の神輿渡御の時の我が社。
我が社も着実に屋根の受注を増やして、職人と弟子が7~8人の会社になっていました。そんな中で突然、兄良一が六歳で病気で亡くなったのです。両親の悲しみは気が狂わんばかり思いで、特に父が当分の間、仕事もせずに一点だけを見つめボーとしていたと聞きます。
昭和32年7月17日の事です。しかし不思議な事に母が長男が死ぬ前に身ごもっていた事がわかり、家族皆この子は良一の生まれ変わりだと思いました。
昭和33年4月8日お釈迦様の生まれた日、産婆さんの第一声が、黒金の男の子だよー、丈夫な子だよーだった。期待に応えて男として二代目雅則が生まれた。家族皆喜びは凄かったんだと思います。でも母39歳父44歳の高齢での子供ですので、親戚の一部では、もう跡継ぎには間に合わないのではと後で聞きました。そんな事がありましたが、順調に育ち、家族の宝のように可愛いがられました。
昭和三十年代中頃 長尺瓦棒葺きの様子。
昭和38年7月会社も設立して、杉本ブリキ店から有限会社杉本板金工業所と変わり、屋根の流れも切り葺きから長尺成形板へと変わっていきます自分が五~六歳頃だと思うのですが、夕食後は必ずおばあさんを中心に家族皆で車座になり吊り子(切り葺きでも長尺成形板でも必ず母屋に釘でとめる接続金物を一時間ほど作るのが日課です、それは屋根の工事が多いので職人に作くらせる時間がないので、家族皆の仕事なのです。
昭和三十年代後半 まだ自転車が運搬手段の時代でした。
小学校になると、六つ切り葺きの加工までしました。ただしその頃になると父から、何枚作ったら何円と交換条件をだし、自分でお金を稼ぐ喜びを教えたかったんだと思います。今思い出してみるとパッチ、ビー玉もそこそこ強かったので、店屋より多くして売ったり、冬になると鉄板をコの字にして先端を潰して丸めると鉄板スキーとなずけて売って、チョコレートやキャラメル買って食べていた、そんな子供でした。
また運動が好きで幼稚園の頃はジャングルジムのてっぺんで仁王立ちして周りを見ていたり、屋根の上に登り弁当を食べる事が好きで、小学校になると鉄棒にこり、三年生の頃では大車輪や逆手車輪も、床ではバク転バク宙も出来ました。何を言いたいか?高い所が好きで身の軽い体で商売気があるのは、紛れもなく先代の遺伝子のなせる技と思っています。高校の夏休みには必ず家のバイトして、知らず知らずこの世界に入るようになっていたのか、しかし、けして先代から私に跡継ぎの話はしませんでしたが、でも板金屋になる、二代目になると心の隅にあったのだろうとおもいます。
昭和四十年代中頃の我が社。
我が社も激動の昭和20年代、高度経済成長期の30年代、安定期の40年代から50年代へ、先代も還暦を過ぎ会社は大きくならなかったが、現状維持の状況です、しかし信用と信頼の言葉は太く大きくなりました。今ならわかりますが次が誰かも決まらないのに無理な事が出来るわけがありません。
高校卒業後我が社へ入社、これで先代の引退が伸びる事になります。息子18父62、果たして使い者になるのか?いつまで持つのか?一層の事大学でも行って他の仕事に就いてくれた方が気が楽だと思ってたかも知れません。板金屋一年生、どの職種も足掛け三年と言いますが簡単で体力勝負の仕事ばかり、その繰り返しで体力と基礎技術ができ次へ進むのですが、私も同じ事の毎日で次の仕事をさせてくれないので嫌気がさした事がありましたが、それが逆に良かったと思います。なぜかと言うとその技に貪欲になり、見てすでに覚えている自分がいるのです。昔からの盗んで覚えるの言葉のように、その様な技はけして忘れる事はありません。
昭和56年4月当時の工場長の末弟の恵司氏が亡くなり、現場の責任者や官公庁工事の主任技術者や現場代理人になる一級技能士の資格者いなくなり、早急に必要とされ、のんきにしてる場合でなくなり、とにかく兄弟子より早く正確できれいな仕事出来る様になる事と資格を取る事を目標としました。その年の11月、かねてから付き合っていた大槻るり子さんと結婚し、より一層拍車かかり、勉強して24歳で職業訓練指導員、26歳で一級技能士に合格し現場でもリーダーとして認められるようになりました。事務的な事も見積書、請求書、集金も覚え27歳頃では専務と言われるようになりました。先代からは30歳になったら社長になりなさい。その言葉どうりに30歳の春、代表取締役に就任しました。
父は2年ほど前から食道がんを患っていましたが、安心したのかその年の秋、昭和63年11月15日74歳で、残念ですが亡くなりました。まだまだ元気で私を見守って、そして助言してくれる父がいなくなったのです。改めて思うのですが、父は素晴らし人生で私の誇りでもあり目標でもあったのです。
その間我が家では58年長男智哉、60年直文が生まれ賑やかになりました。時代も昭和から平成へ変わり、その頃米町の再開発事業が始まり、平成3年120坪の工場兼住宅を建てより一層、頑張らなければならないのですが、30歳で社長になりお金も自由になり仕事以外の付き合いがゴルフや夜の街そして組合役員と増え、心に油断がで本業の板金業がおろそかになったのだと思います。平成一桁代はバブル経済で努力しなくても仕事あり、そこそこ利益が出てたので、気がつかなかった時代を過ごしていました。お坊ちゃま育ちでお金に困った事もないのでお金に執着がなく、気が付いた時は会社が2年続けて赤字をだいている始末です。
平成二年度完成の工場兼住宅。
平成10年代バブルも崩壊し仕事は激減し、特に我が社の売上の3割を締める建設会社が倒産し、なおさら厳しくなり、会社の方向性を徐々に変えるようにしました。もともと私は下請けとして他社より単価を下げてまで取ろうとする考え方は、嫌いで技術に対して適正な価格が当たり前と思っています。ですから下請け工事から元請け工事を増やしていく事、個人の屋根や壁のリフォーム工事を増やす事です。
親の背中を見てきたのか、平成14年4月、長男智哉が高校卒業後この世界へ入る事になり、我が社では無理な事、それは大きな会社で技よりも、人とのつながりや組織での関わり方を覚えて欲しくて北海道でも指折りの会社に入社しました。
平成17年兄弟子でもあり右腕の岡田克二さんが脳梗塞で倒れて現場での責任者がいなくなり、我が社とって大変な痛手となり若い職人ばかりで次の人材を育てていなかったのです。とりあえず私が現場重視として持ち堪えたが人手不足もあり翌年まだ修行中の長男を戻す事になりました。予想どうり個人の技術力は低かったけれど、社会人としての礼儀と一番大事な人の痛みがわかる技術を身に付けてきました。
平成18年は私にとって経営者としてまた技能士としての分岐点だと思います。経営者として長男智哉と共に働き、直接教える側になり技術はもちろん、三代目として育てる事、技能士としての出会いは法華寺の隅鬼(50年ほど前先代の頃、我が社で製作した物で本堂の四隅にせり立った魔除けの物)で北海道中探しても、これ程の物はないと思うほどの素晴らし作品です。それを当時の室伏住職に老朽化により、新しく取替えてほしいと依頼され、果たして自分が作れるだろうか悩んでいた私に室伏住職が先代で作れた物があなたが作れない訳がないど叱咤激励されました。
考えてみれば、これを作った職人(岡田昌三氏と吉川正志氏の合作で二人とも後に独立し、現在も二代目へと続いています)は生前父から聞いて、特に岡田氏は天才肌で、まだ当時27~8歳と知り自分は48歳で、すでに30年のキャリアで出来ない訳がないと心に思い、何よりも我々の代で忘れられた伝統の技(打ち出し、切り出し)を再現できるチャンスは二度とないと確信し、冬期間の閑散期に、まるで手探り状態で試行錯誤しましたが三ヶ月かかって四基の隅鬼を製作しました。これによって北海道新聞の一面に大きく掲載されて我が社の名と技術力は全道的に評価されました。
四基の隅鬼と室伏住職と共に北海道新聞の一面に掲載されました。
平成20年代は手の空いた時、鬼を作った技をいかし戦国武将の名のある15種の兜のミニチュアを一年がかりで完成させ、折鶴を大中小で父母そして、子供を銅板と真鍮板で作り分け、幸福鶴と命名し、お世話になった方や工事の依頼主に兜か鶴のどちらかを必ず完了後贈呈し、これは私が作った物で、我が社の工事の保証書代わり品ですので、今後10年間は万が一雨漏りや問題のある所がありましたら無償で直します。ぜひ玄関や床の間に飾ってくださいそして親戚や友人で屋根や壁でお悩みの方がいらしゃいましたら、この品を見せて頂き宣伝してもらえませんかと依頼主にお話をして渡します。それはこの品物を見れば、誰もがこんな事が出来る板金屋さんなら任せてもいいと思うからです。
その繰り返しと独自の戦略で今では個人の工事が全体が70%近くまでの売上を占めます。近年では特に法華寺の大棟鬼、大成寺の全面改修に伴い大棟鬼合わせて四基の鬼を作らせていただき、再度北海道新聞に掲載されました。ものつくりの世界に生きる職人として、こんな素晴らし仕事に出会えた事に感謝しています。
創業80周年記念に製作した実物大の豊臣秀吉公の兜。
初孫誕生記念に製作した徳川四天王の一人本多忠勝公の兜。
還暦記念に製作した蒲生氏郷公の燕尾形兜。
地域に根差した板金屋さんとして一般住宅はもちろんのこと定光寺、西端寺、厳島神社,護国神社、桂恋神社、他の神社仏閣の工事させてもらい、平成29年には私の代で一番大きな工事で鳥取神社の屋根の全面改修を特殊なファイバーグラスシングル材で葺かせてもらいました。
我々の仕事は作ったものが,残ることの喜びがあります。我が家の窓からみえる釧路の名所米町公園の展望台の屋根は私が32歳の時に作ったもので、既に30年近くなりますが、やっと銅板が緑青してきました。おそらく百年以上はもつでしょう。孫やひ孫の代、これはおじいさんが作ったものだよと、語り継がれて欲しいです。
平成二年度に完成した米町公園展望台写真。
今改めて考えると本当にこの職業を次いで良かった、また先代である父に感謝しております。私の周りの多く皆様のおかげで今年で創業83年、やはり続けてこれた事の重みを感じます、お陰様で組合役員として多く事業内訓練生を養成した事が認められて(認定職業訓練功労者)鬼や兜の伝統的な技術が評価されて(卓越した技能者)平成28,30年と二度の北海道産業貢献賞を受賞する事ができました。
今後も体が動く限り、ものつくりを続け先代からの信用と信頼の文字が、更に太く大きくなるように努力していきたいと思います。平成の時代も今年で終わろうとしてますが,やはり新しい時代は新しい主役となる、三代目智哉のもと創業百年に向けて(有)杉本板金工業所の歴史が更なる繁栄をのぞみ終わります。